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小説

機械のおもいで

プロローグ

頬が、ズキズキと脈打っている。顔は熱を持っているのに、躰は氷のように冷たかった。

「なあ、殺していいか!?」

鋭い声が鼓膜を震わせる。

早急に最適解を見つけなくてはならない。今度こそ、最良のアルゴリズムを実行しなければ。

「私が産んだんだから、私が殺すのも自由だよな!?」

あまりの大声に、耳の奥がジリジリする。

「だって、お互い様じゃないの!」「どれだけあんたに振り回されたと思ってるの?」

目の前で次々と発される言葉の数々。そろそろ、許容過負荷を超えてしまう。

「おい!!」

突然、背中に鈍い衝撃が走る。胸ぐらを掴まれた私は、壁に押し付けられた。強い威圧。母の目には、狂気が宿っていた。

「もうさぁ、文句があるなら出てけよ!!」

そんなことを言われても、行くあてなどない。どうするべきか、当時の私には分からなかった。

第一章 選択

畳の隙間から、扁平で小さな虫が這い出てきた。

ここは「第二ホテル」という名の簡易宿泊所──いわゆるドヤである。寝るためだけの箱、煙草の煙で黄ばんだ壁に、ツンとした異臭。最早、トコジラミとゴキブリの住処に居候させていただいている、と表現した方が正確だ。

私は、なぜここにいるのだろう?

ここ数日間、同じ映像が何度も頭の中をループしている。私は、テレビの前に置き去りにされた人形のような気持ちであった。忘れ去られた躰は、行儀よく折り畳まれて動かない。

思えば、昔から毎日が災害時のようだった。

授業中に教科書のコラムが気になって、気がついたら授業が終了している。教師の言葉が耳に届くが、意味として処理される前に霧散してしまう。何かの日付や時刻を確認した3秒後にはそれを忘れている。

勉強も運動も苦手で、何をやっても駄目な奴だと言われてきた。どうして、自分はこんなに要領が悪いのだろう……。

配られた意味不明な暗号が印字されたプリントの端に、一本の線を引く。その線は梯子にも見えるし、綱渡りの綱にも見える。あるいは、だれかが立てかけたままの杖かも知れない。

その線は消えない。その線は裏切らない。前の線を前提に次の線を引く。紙の上では、行為の単純な累積が明快な形態となって現れる。失敗はない。誰も失望しないし、焦らなくていい。

そうして空想の秩序が形づくられ、算数の練習問題プリントは不思議の迷路に姿を変える。

中学、高校と進むにつれて、次第に絵だけが自分と世界を繋ぎ止める糸となった。その細い糸に縋りながら、自分の中の劣等感を消去するには、誰かの真似事ではない作品を生み出すしかない、と考えるようになっていった。

そうして、大学を二年で中退し、画家として生きることを決めた。とにかく、描いている時間だけは幸福で、それ以外の時間はほとんど苦痛だった。ならば、苦痛の時間を最小化し、幸福の時間を最大化する。それが私の出した最適解だった。

作品のテーマは、機械でできた人間。その出発点は、幼少期からの自分に対する幻想だった。他人と感情を共有できない自分は、ロボットなのではないか。そうであれば、上手くできないことも、この孤独感も、欠陥ではない。全てはそういう仕様なのだから……。

母には馬鹿にされたり、殴られたりした記憶はあるけれども、甘えたり、褒められたりした記憶はない。

些細なことで傷付きやすく、攻撃されたと思い込み、誰かを見下す。私は早い段階から、母の顔色を伺うようになった。しかし、苦しみを理解しようと寄り添えば「上から目線で偉そうに」と怒られ、沈黙を選べば「何か言うことは無いのか」と怒られる。このサイクルは無限に繰り返された。

一方で父は、感情的な場面から静かに離脱する人だった。悪意を見せず穏やかで、ただそこに存在している。諍いには割って入らず、嵐が過ぎるのを待つタイプだった。父の佇まいは好きだったが、助けてほしかった場面でも、父はただそこにいるだけだった。

その後もアルバイトをしながら画家活動を続けていたが、売上は微々たるものだった。就職活動を始めれば、絵を描く時間は取れないかもしれない。最適解がどこにも見つからなかった。

「死にたい……」

ふと、不健康な感情が過る。

否……生きたい。

見窄らしい電灯が、僅かに左右に揺れている。

その二つは、恐らく表裏一体だった。今のまま生きていても苦しいだけだ。新たな居場所を見つけなくては死んでしまう。私は、家庭以外の人間関係を構築する必要に迫られていた。

個展やイベントに足を運ぶようになったのは、その頃からである。人の集まる場所に顔を出すたびに少しずつ知り合いが増えた。そして、活動を始めて二年目の秋に、陽葵と出会った。

彼女とは、言葉を交わしたその日から打ち解け、制作から恋愛まで、さまざまな話題を語り合った。

「え〜?それは違うんじゃない?」

陽葵は、笑いながら私に言った。

私と陽葵が同意見になることは滅多になかったが、不思議と居心地が良い。お酒、芸人、古着、演劇、同人……。陽葵は私の知らない世界をたくさん知っていて、全てが新鮮だった。私は、あっという間に陽葵に惹かれていった。

親しくなれば、個人的な悩みを打ち明けるようになる。あるとき私は意を決して、家庭内での事情を打ち明けた。

「それ……絶対おかしいよ」

陽葵は、いつになく真剣な口調でそう言った。

おかしい?

それは私には思いつかないことだった。異常なシステムの中で育てば、異常は標準になる。外部からの入力が、初めて私のデフォルト設定を疑わせた。それから陽葵は、親身になって相談に乗ってくれるようになった。

陽葵は、嘘で固めていた私の鎧を一枚ずつ剥がし、最も醜いと思っていた部分さえも肯定してくれた。彼女の介入はときに強制的だったが、私にとってはそれこそが本当に嬉しかった。

陽葵の過去にも、親との関係で苦しんだ時期があったという。全てを語りはしなくとも、話す彼女の表情からその感情が痛いほど分かった。そんな陽葵の知識を借りながら、私はあの家を出る決意を固めたのであった。

そうして実家を脱出し、三週間になる。区役所に駆け込んだ私は、まず「第二ホテル」という名の簡易宿泊所を案内された。

「更生施設の利用申請が受理されるまでは、まずこちらの簡易宿泊所で生活していただく必要があります」

区役所の職員の声が、録音のように正確に再生される。起伏のない単調な発音。感情のない情報伝達。私と同じ話し方だ。

ホームレスにならずに済むだけありがたい、と思えばそれまでだが、それでもある程度の忍耐が必要な予感はした。

ゴホッ!ゴホン!誰かの咳が聞こえる。

酸っぱいような壁の臭い、廊下の向こうの水道の音。薄い壁のすぐ向こうに、見知らぬ誰かの生活がある。

居室を満たすこの陰惨な雰囲気は、一体何によるものか。恐らく理由は複数あるだろうが、なによりこれは自分で決めたことなのだから、これ以上はよそう。見窄らしい電灯はつけたままにしておき、また私は小さく丸まった。少なくとも、今の私は“あの家”の登場人物ではない。私はただ逃げたのではなく、生き延びるために自ら“選択”したのだ。

第二章 再編

不安は、常態化していた。

脈動する躰、効かない抗不安薬、全身の皮膚がひりつくような感覚。

誰かが……話している。自分は、何だか傾いたまま、正座をしている。自分?誰……?逆光で表情は見えない。

明滅は有機的で、酸素濃度は低く、ぱちぱちと……何かを主張していた……。

病院の消毒液のような匂いがする。目が覚めると、見慣れない場所にいた。

そう、二度寝をしたのだ。酷い夢だった。どんな夢だったのか、もの凄いスピードでイメージは遠ざかる。今はもう……よく思い出せなかった。

五月に利用申請が受理されると、更生施設「新山崎荘」へ移動することになった。

「えーと、ここはですね、まぁ主に支援を必要とする単身世帯を対象にですね、食事や入浴等の生活支援と、社会復帰に向けた自立支援を行う、まぁそういう施設ですね」

施設の職員が、ホチキスで纏められたプリントの文字を読み上げていく。

利用者の年齢層は比較的高く、前科のある者も多い。それでも、清潔な居室と栄養バランスの良い食事、さらには入浴と毎月の理髪まで可能で、療養には最適な環境だった。

新山崎荘では朝の掃除当番があり、私の担当は喫煙室だった。そこには、道路に面した大きな窓があり、並行な四本の車線にミニカーが走っているのが見える。

朝日に照らされたミニカーは、車線に対して45°の影を作りながら流れてゆく。単純な画面構成が美しい。美しさを感じる自分が、また美しかった。窓に映った自分を見ていると、以前とは少し顔つきが変わったような気がする。

施設の中は、社会の流れから隔離されていて、まるで時間が止まっているような錯覚に陥る。単語が、文脈から切り離されると意味を失うように、これまでの社会的関係から切り離された私も、意味を失った存在となって浮遊している。

無条件の愛を欲していた私にとって、この場所は、その条件のなさを孤独という形で提供してくれた。居心地の良さと寂しさの同居する清潔な居室の中で、私は絵を描いた。キャンバスの上の機械人間は、いつも表情がない。人間関係から切り離された場所で、人間に憧れる自分を描き続けていた。

どこからか、父の匂いがする。

グローブのような太い指で、器用に柿の種を口に運び、ゴクリと発泡酒を飲む。目線の先のテレビには、どこかの芸人が映っていた。穏やかな目尻に刻まれる皺。私は、穏やかな父が好きだった。

虐待とか機能不全家族と言っても、悲しい記憶しかない訳ではない。どんな家庭にも、その家庭なりの生活と思い出があり、一概に評価できるような単純なものではないと思う。

私は、過剰適応による過度な抑圧から心身に不調を来した。家庭、恋愛、職場。思い返せば、全てにおいて過剰に適応していた。私が頑張れば、うまくいくはず。いつか平和になるはず。そういう、一種の幻想を生きてきたのである。このような幻想は、短期的には安心を生み出したものの、長期的には精神を蝕んでいった。

新山崎荘での静かな日々は、そんな私の歪んだ認識を、少しずつ洗い流している。本当の私なんて、どこにもいないのかもしれない。時間が止まったようなこの場所で、私は、自己の統一性という幻想からも解放されつつあった。

私は、無数の「私」のスープをかき混ぜるように、大きく息を吸い込んだ。この先、私は私の大切な人を幸せにすることができるのだろうか。そのためにも、まずは自分自身の再編を果たさなければならない。

第三章 人間

時計の針は、二十時十五分を指している。

十月から物件探しを進め、十二月から東京の賃貸物件「コーポラスやなぎ」で暮らすことになった。家を出て八ヶ月、長い道のりだった。決して広くはないが、必要十分な生活空間。窓の外は、タワーマンションの放つランダムな光に包まれていた。

このところ、全身が鉛のように重く、昼も夜も関係なく眠ってしまう。最早、画家活動は続けられなかった。或いは、ようやく休むことを許せるようになった、とも言える。

浅い眠りのせいか、焦る夢ばかり見ている。年末の、記憶の大掃除といったところか。日々の夢の共通点は、焦燥や喪失の反復と、それが演出的だということ。要するに、自分の人生そのものだった。これで走馬灯のつもりなら、あまりにもセンスがない。

「もう一生、寝たきりなのかもしれない。ならば、絵を描けない自分に価値はあるのか?」

ふと、そんな問いが過る。

「あのさぁ、一生とかそういうのやめたら?じゃああんたは世界中の寝たきりの人に価値がないとでも言うの?」

即座に、私の中の別の一人が応える。

「病状は、回復に向かっていると思いますよ」

精神科医の言葉が、録音のように正確に再生される。

明滅するLEDのように、現れては消える反芻思考。横になり、この無意味な問答を反復する私のために税金が使われていると思うと、罪悪感で押し潰されそうになる。

「私が生きていることに、何か意味はあるのか?」

再び問う。

「何の意味もない。そんな事は分かってんだろ?」

私の中の誰かが返答する。

「でも……何かの役に立ちたい……」

抑え切れないものが、自分の中に込み上げてくる。

「誰かに感謝されたり、認めあったり……ただ、甘えたり……喜びあったり……あっ……愛されたい……」

視界がぐにゃぐにゃに歪んでいる。

こんなところで、何をしているんだろう。

この見知らぬ部屋は、どこなんだろう。

また、死にたくなってきた。

いっそ誰かが、私を殺してはくれないだろうか。そんな贅沢が叶うなら、きっと、何事にも代え難いほどの幸福が私を包み込むのだろう。病的な鈍麻感が、ゆっくりと私の躰を支配してゆく。

夜は、次第に密度と重さを増していった。

私は一時期、陽葵に殺されたかった。そのような妄想が実行される日が来るとすれば、それは完璧な一日になるに相違なかった。

恐らく、「殺されたい」という願望は、「愛されたい」という欲望に近いものであると思う。愛するということは、相手に干渉するということで、それはある種、個人の自由を侵害する行為でもある。愛は、決して優しさや共感だけで構成されるものではなく、自由の侵犯を内包した現象なのかもしれない。

また、夢を見た。

あれは、大学生の頃に付き合っていた女性だ。その人は不安げに笑ったかと思えば、突然人を突き放したりする不安定な人であった。ある意味で母に近いと言えなくもない。

しかしながら、そんな矛盾を内包した彼女の人格にこそ私は惹かれたのである。それは花火のように鮮烈で、圧倒的な支配力を持っている。

そういえば、昔から線香花火が好きだった。時折、あれが人生の象徴のごとく感じられることがある。

多分、私は圧倒的な存在に支配されたいのだ。或いは、支配したいのかも知れない。それは、母性への憧憬だろうか。いや、それよりも、相手に「支配しなければいけない」と思わせることで、相手を支配する万能感を得たいのだろうか……そう、まるで、赤子のように。

コーポラスやなぎで暮らし始めて二年。私は、陽葵と結婚した。

私たちは、互いの不安定性を理解しつつも、必要なときには支え合い、尊重し合っていた。陽葵は相変わらず、私の言葉をゆっくり聞いてから、丁寧に自分の言葉を返す。私の不安に対し、真っ直ぐに向き合ってくれる。彼女が私とは全く違う、独立した“個人”であることを知るたびに、私は感謝と安堵を覚えた。

一方、私は母と連絡を取らない間に、頭の中で安易な幻想を育て始めていた。それは端的に言えば、私と母とが互いに冷静になれば、過去の過ちを清算し、再会できるという幻想だ。

しかし、結婚を機に送った久々のメールに返信が来たとき、私のそれは、容赦なく打ち砕かれた。

件名:Re: 結婚しました 差出人:母

メールありがとう。

急なことだから、正直心がついていけていない部分もありますが、まずはおめでとう。あなたが家を出て、今の生活を手に入れるまでには、お母さんには想像できないほど辛いこともあったことと思います。でも、お母さんを含め、お父さんも、みんなずっと同じように苦しんできました。

お母さんもうつ病になり、複雑な思考を行うことや、臨機応変に行動することができなくなっています。もともとストレスを溜めやすい性格ではありましたが、コロナ禍に入ってからの私のストレスは相当なものでした。人に会えない辛さ、お父さんとの関係、あなたが大学を退学したこと。

こんなことをあなたに言ってはいけないけれど、私の中の消えてなくなりたい気持ちは日に日に強くなり、一日中涙が止まらない状態です。

今、あなたには彼女が居てくれていますよね。こんなことを書くと、気持ち悪いかもしれないけれど、SNSで二人のことを目にしています。

近くに信頼できる人がいてくれることは、心の回復には一番だと思います。お母さんには今、そのような居場所がありません。お父さんには何度も話をしていますが、理解することができないのだと思います。

一度、会って話をすることはできませんか?

あなたに助けてくれだなんて言うつもりはありません。ただ、もう一度会って、きちんと話をしたい。このままだと、もう永遠に会えない気がします。

お母さんより

文章を読みながら、キーーン…………と耳が遠くなる。目の前の景色が、何か無関係の映像のように現実味を失っていった。

どうやら、とんだ思い違いをしていたらしい。私は途端に、実家での二十数年間が虚構であったような喪失感を覚えた。何らかの意味があると思っていた諍いや、苦悩、謝罪。

それが今、砂の城のように崩れ去ったのである。

不意に、柔らかくて温かいものが私を包み込む。

陽葵の匂いだ。

「大変だったね……」

陽葵が泣いている。

思考の表面が、僅かにざらついた。

「もう大丈夫だよ……大丈夫……よく頑張ったね……」

そのとき、胸の最深部で何かが音を立てた。

それが何によるものか、私には分からなかった。ただ、その一瞬だけは、私の中の全員が停止していた。

気がつくと私は、陽葵の腕の中で、しゃくりあげるようにわんわんと泣いていた。まるで、赤子のように。

画家活動の再開に関する計画は、順調に進行している。新たな居住地の準備に関しても、計画通りに進行中。全て、問題はない。脳内で言語が組み立てられ、現状の私を規定してゆく。

大丈夫。

陽葵の家族とも打ち解けてきたし、友人だって、少しずつ増えてきた。

ほんの少し、頭が軽くなったような気がする。

どうやら私は、早くも新しい幻想を拵えたらしい。

「案外、逞しいじゃないか」

私の中の一人が、私に感心する。

しかし同時に、そんな単純な幻想に飛び付かなければ安定を維持できない精神力の低さと、それを逞しさとして許容してしまう感受性の鈍さに、私は少し幻滅した。

エピローグ

コンビニエンスストアを三軒もはしごして、ようやく手に入れた手持ち花火のセットも、終わりに近づいていた。結局、地味な線香花火が最後に残る。

陽葵の線香花火が弾けている。

きっと、全てに意味はない。ただ、それがあまりにも美しくて、それをぼうっと眺めながら、私は静かに泣いた。

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